例えばそれが、軽い気持ちのひと言だとしても|自分を信じて進んでいきたい
ヨレンタさんからしたら、軽い気持ちのひと言だったかもしれないけど
でも
わたしにはあの声が
わたしの価値観への
わたしの未来への
肯定に聞こえた。
アニメ「チ。」の、エピソード22の中での
ドゥラカの言葉。
自分の心に、もっと素直に
アニメ「チ。」を観てると、毎回心を動かされる言葉に出会う。
漫画は読んでいないから続きが気になって仕方がないんだけど、この感動をしっかりと味わいたいからね、Netflixで最新話が観られる日曜日の朝が最近とても待ち遠しい。
で、今回の この言葉。
「わたしの価値観への
わたしの未来への
肯定」
これって、わたしがずっと欲しいと思っていたこと、そのものなんじゃないかなと思って。
誰もが自分らしく生きて、そのことを否定されずに 認め合いながら、尊重し合いながら生きていける世界。
「その人らしく生きる」ことを、肯定し合える世界。
例えばね、何か目の前の出来事に対して意見を言ったり否定をしたり、正論を突きつけたりするのは簡単にできちゃう。
だからこそ、本当にそれこそ「軽い気持ちのひと言」なのかもしれない。
言った側にしてみれば、もう言ったことすら覚えてないくらいの言葉だとしても、言われた側にしてみたら「自分の気持ちや感動や行動を、認めてもらえなかった」ってことが積み重なっていく。そういう言葉。
わたしの中にはそういう言葉からくる、いつまでも握りしめておく必要なんてどこにもないのに染み付いちゃってる負の感情が溜まってる。
でもじゃあ何を認めてもらいたかったかっていうと、例えばそれは保育園時代にまで遡って
朝、園に行くのが嫌っだた気持ちとか(それは小学生の時にもあった。でも行くしかなかったし、たとえ休んだとしても罪悪感のある休み方だった。)
小学校時代の運動会のダンスや観劇会ですごくワクワクした気持ちとか
図鑑で見た恐竜の骨格を切り抜いた画用紙で作ってみたり、中学生の頃に宿題としては出されていない社会科の自由研究をおもしろくまとめてみたり‥
もしそういうことを、わたしの心が動いたひとつひとつをちゃんと認めてくれて、一緒におもしろがってくれる人が身近にいたら、今どうなっていたんだろう。
いろいろと深く考えてしまうことを「そんなの考えすぎだよ」って言って済ませずに、考えすぎてしまう個性も含めてわたしなんだ。ってことを、ずっと誰かに肯定して欲しかったんだなぁ。
手帳やノートを使って自分と向き合うことを積み重ねてるうちに、日常の中で触れるいろんな情報からも深い生き方のヒントを得るようになってきてる。

どうして自分で選んで生きてるはずなのに、生きづらく感じてしまうのか。
自分で選んでると思ってたけど「選ばされてる」「選ばずにはいられない状況になってしまってる」ってことが、知らないうちにたくさんあるんだろうな。

望まずに身につけてしまった「心のクセ」を、またこれからも手帳やノートを使って自分と向き合う中で紐解いていきながら、手放したいものは少しずつ手放して、大切にしたいと思える感情をどんどん磨いていきたい。
「好き」のチカラを、大きな原動力となる「好奇心」を、大切に。
コメントを残す